三国志劉禅伝 1800年の悲哀

みなさんこんにちは、川越市六軒町にある就労継続支援B型事業所あしたのタネ川越六軒町のmです。

三国志の人物伝を今回書いてみようと思ったのですが、正直な話もっとも悲しい評価を受けている人物と言って良い蜀帝国第二代皇帝劉禅(207-271)を深掘りしてみたいと思います。幼名は「阿斗」と言いますが、この名は歴史の不幸な巡り合わせで頭が悪い人物を指す時の代名詞になってしまいました。
こうなったのも小説「三国志演義」を書いた羅漢中の責任によるものが多く、これが文学的におもしろいとはいえ彼の作品によって下がった劉禅という人物の評価は計り知れないものがあります。
不幸は続きます。
現代中国の建国の父、毛沢東は大変な読書家で、歴史、哲学、詩、文学などジャンルを問わず大量の本を集めて読み、三国志演義も当然のように大好きでした。読書にかけてその熱心さときたら、国内の本にとどまりません。また、読書に関するさまざまな名言を残しており、(ためになるものも多いです)その入れ込み方は筋金入りだったと言われています。世界史を学んだ日本人にとっては彼は、中国建国後の失政が有名かもしれませんが、教養という観点から見ると、毛沢東のそれは相当なものと言っていいでしょう。
以下に述べる逸話は、いつ、どこで毛沢東が行った発言かわからないのですが、ある時毛沢東は「人は阿斗に生まれてはならない」と演説したと言います。調べても裏が取れないのですが日本人の三国志ファンも広く知る発言です。

三国志演義で散々書かれ、あげく中国国民に大人気のリーダー毛沢東にこのようなことを言われた劉禅の評価は地に落ち、もともと羅漢中にいろいろ書かれて低かった彼の名声は中国史上最低まで行ってしまいました。その人気のなさたるや三国志の敵将曹操や謀反人呂布、後漢の悪党董卓以上でした。
日本でもコーエーテクモ社の有名ゲームシリーズ「三国志」での劉禅の扱いは極めて悪く、一時は知力などの能力値を3、5、9、4(さんごくし)にされて遊ばれていました(各能力百点満点ですよ)
しかし同社がもう一つの三国志ブランドゲーム、真三国無双に劉禅を出すか考え始め、社内でかなり議論があったようですが、6作目で愚か者か、それとも賢者か?飄々とした君主として登場しました。
三国無双での劉禅は、自分が大した人間ではないことを知っている、にもかかわらず小国とはいえ、父である劉備の作り上げた蜀の国を継がなければならなかった皇帝、というかなり考えられたキャラクターになっています。

劉禅は三国志演義で悪いことばかり書かれてしまっただけで、歴史書の方の三国志では、去勢された男性役人である宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)に好き勝手させてしまったり、大将軍姜維(きょうい)の無謀な戦争をなかなか止められなかったりしましたが、そのころ敵国の魏や呉がそれぞれ司馬一族のクーデターや国内の内政で大炎上する中、蜀は40年近く、これと言った反乱、紛争もなく劉禅は皇帝の仕事を務めました、実はかなりの長期政権です。政治は黄皓が悪事を働くまでは、諸葛孔明の遺言に忠実に行っており、これまでの評価はいくらなんでも不当評価ですね。

禅の長期政権にもおそらく理由があり、ひとつには蜀(現四川省)が山だらけで攻めにくいこと。もうひとつは呉帝国は無類の大酒飲みの君主孫権が酒乱でおかしく(おそらく今でいう認知症)なってしまって寵愛していた子を無理やり後継者にしようとする騒ぎがあったこと(二宮の変)

魏国はまず家臣の間で内乱が発生、曹丕の子曹叡(そうえい)帝治世曹爽(そうそう)と家臣の司馬一族が対立し、勝利した司馬懿は曹爽一族のほとんどを粛清しました、(ちなみに曹叡の治世下に邪馬台国から卑弥呼の使いが魏に来たと言われています。)
そのほか魏で文欽(ぶんきん)毌丘倹(かんきゅうけん)らが司馬師に反乱を起こしていたなど、蜀攻撃を後回しにせざるを得ない理由があったであろう理由が存在したことでしょうか。
このように魏国でも混乱が起きていました。

そうは言っても蜀は国力が弱く、鄧艾、鍾会(しょうかい)ら率いる魏軍にけわしい山地を攻略され、(特に鄧艾の手柄です)劉禅はおとなしく降伏、(263年)蜀は滅亡しました。
しかし魏国も先の司馬一族の簒奪で権力バランスは大崩れでした、蜀が滅んですぐ、最終的に司馬師の弟、司馬昭の子の司馬炎に滅ぼされます。(265年)
蜀が降伏した時、大将軍姜維は剣閣(けんかく)砦で戦っていましたが、蜀の降伏を知ると鄧艾の成功をよく思わない鍾会は鄧艾を謀殺、(鍾会の乱)姜維は蜀の復興を狙いましたが2人の反乱計画がバレて失敗し、姜維と鍾会は死亡しました。ちなみに鄧艾は生まれは平民で、生まれつき吃音症を持っていたという苦労人ですが、後世の歴史書に名将として三国時代から魏の猛将張遼と共に2人だけ選ばれました。

蜀が滅んで、劉禅はどうなったのか?これには一つ三国志演義が書かれるはるか昔の「漢晋春秋」という文献に逸話があります。司馬昭に安楽公の位をもらった劉禅は、洛陽で宴会を楽しんでいました。
やがて蜀の音楽が演奏され蜀の家臣たちは涙を流しますが、なおも笑い泣くことのない劉禅
これをみて司馬昭は「なんと不人情なのだ」と劉禅に怒りを覚えました。
そこで司馬昭は劉禅に聞きます。
「安楽公、蜀が恋しくないかね?」
劉禅は「いえいえ、蜀など恋しくありません、ここは楽しいですよ」
驚く蜀の家臣たち。
司馬昭は配下の賈充(かじゅう)に、「何という者だ、諸葛孔明ですら明君にできなかったのだ、姜維ではなおさらだ」と告げます。
賈充は言いました、「しかし閣下が蜀を手に入れられたのは、このおかげでございます」
このやりとりを聞いていた郤正(げきせい)という蜀の家臣が「安楽公、祖先たちや蜀臣の墓も西にあるのです。このように聞かれた時はもう西が恋しくてたまらない、と答えてくだされ」と伝えます。

ばらくして司馬昭はふたたび尋ねます
「安楽公、蜀を恋しいと思わないかね?」
すると劉禅は「今はもう西が恋しくてたまりませぬ、」と答えました。
司馬昭は「それは先ほどの郤正殿の指示のままですな」と驚きます。
劉禅は「その通りでございます」と返答
司馬昭はもはや笑うしかありませんでした。

ここに扶不起的阿斗(中国語で、どうしようもない阿斗)ということわざが生まれたのでした。

この話は劉禅がダメな人であることを強調するかのように引用されることが多いですが、蜀が滅んでいるとはいえ劉禅にとって司馬昭はかつての敵です。残虐な人であった場合、蜀に帰りたいなどといったらどうなるかわからないのですから、生き延びるためであればこういう返しも悪くはないと私は思います。
劉禅は271年、65歳で死去します。司馬昭の子司馬炎が魏を滅ぼして建てる晋の国も結局はあっさり滅びるのですが、劉禅は国がめちゃくちゃになる前に亡くなっているので、運がいいと言えます。

ちなみに呉は年号の上では三国時代で最も長く、280年まで持ちますが、国内は暴政で荒れます。個人的に三国志世界で最悪の悪帝は呉国最後の皇帝の孫皓(そんこう)ですね。野蛮な性格で気に入らないものをしばしば処刑し、悪臣岑昏(しんこん)に好き勝手をさせました。おそらくですがローマの皇帝ネロよりも酷い人物だと思います。知る限りネロは初めのうちは名君でしたから。(ネロの暴君化について、昔鉛中毒説というものを見たことがあります)
史書の三国志をまとめた陳寿は、孫皓は降伏を認めず、腰と首を切り落とし、万民に謝罪させるべきであった
と残しています。

悪徳宦官の重用などのいくつかの落ち度こそあれ特に人命を軽視した処刑、残虐行為などの記録がないにも関わらず最低の君主として約1800年間吊し上げられ続ける劉禅ですが、明らかに三国志世界では悪く評価しても普通の皇帝です。
羅漢中は劉禅の悪評の元凶なので、天で詫びる必要があるでしょう。

しかし、曹操や呂布といったそれまでの中国で人気のなかった人物は、日本のゲームや漫画が中国に輸入されてかなりイメージがよくなったそうですから愚帝の代名詞と言われ続けた阿斗/劉禅もいつか名誉が回復する...かもしれません。

三国志の記事は二回目なので、劉備、諸葛孔明死後、無名の武将たちに切り口を変えて、かつ歴史書のように深く書いてみましたが、いかがでしたか?日本人が大好きな武将はほとんど出てきませんし、知名度も低い時代ですが、歴史というものはいつの時代も英雄が去った時代はとくにそのようなものかもしれません。日本人は自国の戦国時代も大好きですが、それでも信長登場以前の乱世は知名度が低いですからね。

以上、後期三国時代と劉禅伝でした。