みなさんこんにちは、川越市六軒町にある就労継続支援B型事業所あしたのタネ川越六軒町のmです。

はじめに、私はそもそも戦争を讃美する人間ではありません。よって過去の大戦での日本軍の悪事を追求するつもりも、米軍を過度に礼賛するつもりもありません。ただあった事実から太平洋戦争を公平に捉えようとしているだけです。こちらをご了承頂ける方はぜひご覧下さい。

聞くところによると、来年で太平洋戦争の、大日本帝国の敗戦から80年だそうです。
1941年の開戦からおよそ4年、日本帝国は列強の一角ではありましたが、中国、アメリカ、イギリス、などの強国を同時に攻撃し始めるなどの戦略の結果、最終的に沖縄戦、1945年3月10日の東京大空襲、広島、長崎への原爆投下など、民間人の死亡者をたくさん出して敗北を迎えました。

1945年3月に始まった沖縄の戦いは現在の47都道府県の中で唯一民間人を巻き込む組織的地上戦が行われた地でした。どこまで本当か今となってはわかりませんが、日本軍は連合国に降るくらいであればと民間人に手榴弾を持たせて、捕まるくらいであれば自爆するよう命令したそうです。(諸説あり)日本側は推定18万の死亡者が出る(軍人、民間人合算)など甚大な被害をこうむりましたが、圧倒的優位のはずの連合国軍の被害も死亡者20000人と言われ、かつ日本軍の自爆強要で至る所で自爆して行く人たちを見て、精神を病んでしまったアメリカ兵もおり、誰も得しない戦争でした。
米軍は命をも捨てる日本人の狂気に恐怖し、それがのちの原爆投下の判断に影響を与えていました。
沖縄戦が本質的に終わったのは1945年6月23日
司令官の牛島中将の自害により終結しました。
米軍が沖縄での作戦終了を宣言したのは7月2日の事でした。

時間は飛んで1945年8月6日午前8時15分
広島県広島市島病院上空、「リトルボーイ」ウラン型原子爆弾が投下され、広島はこの世の地獄となりました。衝撃波、熱線、放射線の影響により、爆心地近くの人は即死、爆心地より直径4キロにいた人に何らかの健康被害が出ました。(爆心地の島病院の先生は出張で難を逃れたそうです)
死亡者の人数は正確にはわかりませんが、大体16から18万人という統計が出ています。長崎の時もそうでしたが、この大殺戮は全世界、およびアメリカ軍の被爆者の方を対象とした調査機関(ABCC)を驚愕させたのでした。戦後広島の街は復興されましたが、いまだに白血病などのいわゆる原爆症で苦しんでおられる方もおり、核兵器の脅威は今も続いていると言えます。昭和の野球を盛り上げた天才バッター張本勲さんも被曝し、ご家族を亡くされています。長くご意見番を務めたテレビ番組「サンデーモーニング」ではメジャーリーグをあまり評価しない傾向があった張本さんでしたが、根底には原爆を落としたアメリカへの憎しみがあるのかもしれませんね。

1945年8月9日、広島原爆のわずか3日後、「ファットマン」プルトニウム型原爆が長崎県長崎市に午前11時2分、浦上天主堂上空で炸裂、直接の死亡者は7万人前後と言われます。被曝した方も含めると14万人に何らかの被害が出ていたそうです。長崎原爆について、本来の爆撃予定地は現在の福岡県北九州市小倉区だったそうですが、天候が悪かったため、急遽長崎市に投下されることになりました。ちなみに、京都は文化財があるから原爆を落とさなかったというのは米軍の調子のいい後付けの言い分で、当時の資料にしっかり投下予定地として入っています。また、原爆は広島のウラン型よりも長崎のプルトニウム型の方が1.3倍の破壊力とされ、広島型よりも有害性が高いのが特徴です。広島同様爆心地近くにいた人はまず助かりません。少数ではありますが、不幸にも広島で被曝して長崎でも被曝してしまった方もおられます。とても無慈悲としか言いようがありません。そして8月15日、北方からはソ連の攻撃も続く中、ついに大日本帝国は降伏したのでした。

戦史研究の場ではしばしば、ただでさえ滅びかけの日本になぜこのような兵器を用いたかについては日本の主張と米国のそれに対する反論とで双方の言い分があります。
日本の主張は、二つの原爆の使用はウランとプルトニウムの破壊力を比較しようとした残酷な人体実験であり、ソ連への威嚇に利用された、というものです。
他方アメリカ側は、日本は太平洋戦争においてアジアを侵略した危険国家であり、沖縄戦や硫黄島の戦いなどで連合国軍が予想外の死者を出し、かつ長引いた経験から、アメリカ兵たちの命を守り、戦争を早く終わらせるために必要だった。というものです。
これらの主張はどちらも大きく間違っているとは言えません。実際に戦後5年もせずソ連は原爆を手にしましたし、アメリカにとっては大変な脅威だったのは間違いありません。
加えて日本軍の将校の中には、玉砕覚悟で本土決戦を続けようとした者もいたため、原爆並の破壊行為がなければ意地になった日本軍は降伏しなかったかもしれません。もっとも、原爆などという恐るべき兵器を民間人を狙い撃ちして使ったことについてはアメリカにも責任があると私は思います。
総括すると、沖縄戦から続く悲劇には明らかに日本軍部の意地が入っており、少し降伏が早ければ沖縄戦、原爆の悲劇は防ぐことができたかもしれません。日本をよく訪れたという天才の代名詞の物理学者アインシュタイン博士は後年、物理学者湯川秀樹博士に泣きながら謝罪したと言われています。

自分が中学生のころ、とある官僚が「原爆はしょうがない」と発言し、炎上したことがありますが、この発言の場合、日本にとっての一大悲劇をそのように軽く流してしまった人ごとのような姿勢に問題があると言えるでしょう。私は頭もそんなに良くない一般市民にすぎませんが、日本軍の態度に問題があったとは言え、沖縄では民間人を巻き込む大規模な戦闘行為が行われ、首都は焼き払われ、また広島、長崎では当時の世界でもっとも恐ろしい兵器による大殺戮が行われた。
これは忘れてはいけない、と毎年この時期になると思うのです。

原子爆弾の脅威については原爆ドームの近くに広島原爆資料館がありますので、興味のある方は行ってみるといいかもしれません。ただ、非常にグロテスクなので、そうした展示が苦手な方は注意してください。
長崎市にも資料館はありますが、いうまでもなく関東からだと遠いので、そこは要注意です

来年の敗戦80周年も、とこしえに平和が続きますように。