みなさんこんにちは、川越市六軒町にある就労継続支援B型事業所あしたのタネ川越六軒町のmです。
皆さんの多くは主に中学、高校で文化祭というイベントを経験したことがあると思います。
私は高校生の頃、図書委員会とコンピューター部を掛け持ちで委員長および部長を兼任していたので、当時は大変でしたが、頼りになる先輩にも助けられ、なんとか二日間の日程を終えることができました。
それからおよそ15年
当時は9月後半のまだまだ暑い日ではありましたが、母校がどうなっているか気になり、ひさびさに文化祭に顔を出すことにしました
すると、駅がまるで別物のように変わり、当時使っていた通学路も跡形もなく激変していました。
迷いながら学校にたどり着いた時、すでに多くの中高生の皆さんで賑わっていました(中高一貫校です)
そして何気なく受付を済ませると、中学三年生で担任だった先生が私の顔と名前を覚えていて、しばし雑談になりました。成績のあまり良くない生徒だったから覚えていたのか分かりませんが、入校して体育の先生に遭遇したときは、先生の方から声かけいただきました。
実は私が一番苦手だった科目は体育でして、ほとんどお情けで2をいただいたような有様でした、しかしフレンドリーな先生だったので話も弾み、用意しておいた川越のお菓子を渡して話を終えました
15年くらい前のobにも関わらずよく覚えているなぁと思いましたが、ダントツで出来が悪いと忘れられないものなのでしょうか?成績で1が2個あるとうちの学則では留年でしたから。迷いながらつけたようではありました。「頑張ってはいたから3にするか迷ったんだけど、公平を保つために2にした」との事でした、1にならなければ私は気にしないんですけどね。
代が進んで私たちの過ごしたコンピューター部はなくなってしまい、プログラミングをやっている生徒さんが活動されていました。Pythonを情報の授業で教えていると聞き、ハイレベルなことやるようになったなぁという感想が残りました。
これが今の学校か...と感心したものですが、進路も変わり、昔はまず出なかった国立大学の医学部に進学した生徒さんがいたらしく、驚くとともに、自分たちの代に必ずいたやんちゃ小僧タイプの子もいなくなり、みんないい子ばかりになっていました。
これもまた、我々の時代にはなかったことです。
しかし、進学校ではないので東京大学はやはり進学者はいませんでしたが。
最後にと思い、私が一番お世話になった社会科の先生方にご挨拶をと思いましたが、誰もおられなかったようなので、お世話になっていたコンピューター部の先生に川越のお土産を代わりに渡していただくよう頼んで、表敬訪問を終えました。
先生という職業に就くと記憶力が良くなるのか、お会いした先生皆に「いつの代か忘れたが、見覚えのある顔」と言われました。たった一年数学を教わっただけの先生にも言われましたから、私に特異的な個性があったのか、たまたま覚えていたのか...
現在、大学の教育学部の不人気、学校の統廃合などが叫ばれ、子どもたちの未来はどうなるのか?と思っていましたが、私の学校はまだ健在のようです、キリスト教学校なので、外国にルーツのある生徒さんも多かったのは、今も昔も変わりませんでした。
変わるものあれば、いつまでも残るものがある。得てして学校教育とは、そのようなものなのかもしれませんね。
以上、ひさびさの文化祭見学でした。